火を見たことがない息子たち
下の子が2歳の誕生日を迎えた日のことでした。
バースデーケーキの蝋燭に火を灯し、ハッピーバースデーの歌をったとき。
「ふ~、して!」
というと、下の子はおもむろに蝋燭の火をつかもうとして、火傷をし、大騒ぎになりました。
。。。
息子よ、かーちゃんが悪かった。
君は火をみたことがなかったんだね。
都会の住宅では、キッチンもお風呂も、指1本。
ボタンを押すだけで煮炊きが完成する仕組みが作れてしまいます。
私の住むマンションは、上の子がお腹の中にいる頃に
リフォームを計画しました。
ビビリの私は安全を思ってIHクッキングを採用したのです。
家事が全部指一本。掃除も楽です。
このシステムのおかげで、私は毎日の暮らしを回せています。
もしもこのシステムがなければ、私は専業主婦として、一生を終えることになっていたでしょう。それは私の性格にはあいません。
この時代に生まれたことに感謝。働きながら子育をできる世の中に感謝。
しかし、しかしです。
この暮らしのありかたは、長い人間の暮らしの歴史の中で、画期的なことである一方で、私たちから、暮らしに対するなんとも言えない自信の欠如をもたらしているように思えます。
電気がなければ、家事を回すことができない生活は、本能のどこかで
私に不安感を与えています。
思えば幼少の頃、私は火と仲良しでした。
自宅には庭があり、焚き火をくべてお正月のお箸を燃やし、魔除けとして灰を自宅の四隅に持ったこと、山小屋でのキャンプで夜になると焚き火を燃やして、大人たちが語り合う姿を目の当たりにしてきたことが思い起こされます。
焚き火にビー玉を投入し、水につけることでビー玉の中のガラスだけを
粉砕し、その粉砕したビー玉の美しさに惚れ惚れしたこと。
生活のそこかしこに火があって、そこにはなんとも言えない安堵感が漂っていました。
暮らしが自分たちの手に負えるものであるような実感があったのだと思います。
今のマンションでの暮らしでは、この子達に人間としての暮らしの原点となる、火がそばにある暮らしを経験させてあげることはできないんだな。
そう思うと、子育をすることで蘇ってきた自分の幼少期の記憶が、眩しく、尊く思えてくるのです。
しかしながら、私は単なる懐古主義者ではないのです。
子供たちに、「暮らし」の豊かさと、これからの社会を生きていく上での最先端の知識を、この上なく絶妙な形でミックスさせて、提供してあげたい。うん、これが私の教育目標だ。決定。
私の楽しい探索の日々が始まります。
田舎を切望する気持ちの発露
「この年齢で近視はないはずだけどなあ。
おかしいなあ。」
子供のかかりつけの眼科で、お医者さんがつぶやいた時、私はすぐさまその理由に思い至りました。
ずばり、タブレットの見過ぎです。
上の子が4歳、下の子は2歳のときです。上の子はトランプやすごろくが楽しいお年頃。
しかしながら、2歳の怪獣がトランプを破るは、すごろくを踏むわで、上の子は毎日大泣きしていました。
仲裁にはいりたくても、6時に帰宅、7時までに夕飯を食べ、9時に寝かせる(実際は10時就寝)ためには、私は夕飯と家事の雑務を優先させる必要があります。
夕飯をつくる間、兄弟ゲンカは延々と繰り広げられました。
そんな毎日に嫌気がさした私が、ある日、上の子に差し出したのが、子供のオンライン英会話限定という名目で購入したタブレット端末だったのです。
ある程度教育本を読み、知育と称するゲームを選んでインストール。
上の子は仮想空間に自分の安住の地をみつけました。
最初こそ30分の時間制限を設けていましたが、いつの間にか兄弟ゲンカ勃発の都度、タブレットを与えて別々に遊ばせることで解決を図るようになっていました。
ふと気がつけばそんな生活を続けて半年が経過していました。
習慣とは恐ろしいものです。
と、ここまでが回想。
「先生、タブレットを与えたのは私です。猛烈に反省しています。でも先生、いまさらゲームを取り上げることは非現実的です。どうしたらいいでしょうか…」
私は、すがるように眼科の先生に解決策を求めました。
「ニンテンドースイッチにしてテレビ画面でゲームをしましょう」
。。。
なんと具体的な解決策の提示でしょうか。
私は眼科に行った帰りに、息子を引き連れて即座にニンテンドースイッチと、とあるゲームソフトを大人買いしました。
私は予習済みでした。ニンテンドースイッチに「遊び大全51」なるソフトがあることを。遊び大全51には、トランプやオセロなど、弟怪獣の餌食になるこまごました遊びがなんと51種類も収録されているのです。
幸い、上の子はニンテンドースイッチをいたく気に入り、ご機嫌でトランプやマンカラ、五目並べなどに講じるようになりました。
ゲームというのは基本的に数字に強くなるようです。
上の子はもともと数字オタクでしたが、ゲームによってメキメキ実力をつけ、保育園の発達検査において、算数においては4歳にしてすでに小学1年生レベルに達していると判定されました。
「お母さん、何をやったらこんなことになるのですか?ぜひおしえてください!」
保育園の先生に問われると
「いやあ、正直おしえてないんです。
天才ですかね。」などと曖昧な答えをしていました。
ですが内心きづいていました。
ニンテンドースイッチが教えてくれていたのです。しかも公文に通うより効率的に。
この経験を通じて、ゲーム自体がだめなわけではないということを実感しました。
しかし、眼科の先生はもうひとつ、私にアドバイスをくれていました。
「できるだけ遠くを見て、焦点をあわせる練習をさせてくださいね」
。。。
ムズいです。
息子の生活(自宅と保育園の往復のみ)にあるのはコンクリートジャングルのみなのです。
遠くまで見渡せるような視界の広がりが都会にはないのです。
このとき、私は息子を自然の中に連れていきたいという思いが無性に強くなるのを感じました。
非合理的な決断
はじめまして。
私は都会で3歳と5歳の男の子を育てながら共働きをする40代ワーキングマザーです。
日々、せっせと職場と会社を往復し、保育園のお迎え前にメルカリの発送のための時間(10分)を死守すべく、ふつーに分刻みでタイムスケジュールを組んでいます。
正直なところ、私はこの合理的生活の飽くなき探究が、好きです。得意分野ですし、性格にもあっていると思います。
そんな合理至上主義のわたしが、このコロナ禍において、なんとも非合理的な決断をしてしまいました。
それは
田舎にもうひとつ持ち家をもち、子育てをしながら2拠点生活にチャレンジするというものです。
。。。
よもやよもやでございます。
経済的合理性を追求するならば、2拠点生活ではなくて、田舎への移住、持ち家ではなくて最初は賃貸で様子をみる、が正解になるのではないでしょうか。
こともあろうに、私の目指す田舎の拠点は持ち家で、しかも「古民家」です。
古民家は、現代の合理的家屋と比べて、定期的なメンテナンスが必要ですし、そのコストは子育て世帯の家計にのしかかることは想像に難くありません。
私の目指すミニマリストとは程遠い決断といえます。このサブスクの時代に純粋な資産とはいいがたい「自宅」を2件も所有するなんて。
そんな自問自答とは裏腹に、私は今も不動産会社の担当者さんから、古民家契約の進捗状況の報告が来るのを待っています。
人生に正解はありません。
自らの衝動を正解にするための行動があるのみです。
このわが家の実験が正解となりますように。
2拠点にまつわる、このとっ散らかった気持ちと情報を整理できますように。
あばよくばこの経験が必要な誰かに届きますように。
そんな決意表明を込めてブログを開設いたしました笑。
お付き合いいただけたら嬉しいです。